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「よい習慣」を続けていれば、
光が差すときが訪れます
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自分や他者の体や心をすこやかにする生活を、「よい習慣」として続ける。
体や心に害を与えることは「悪い行為」として、やめる。
その方法はさまざまですが、これが仏教の実践です。
経典やお経を学ぶことも、もちろん大切ですが、自ら善なるおこないを積み、心を磨くこと。そして、よい動機をもって自分も含めて、他者やすべてのいのちあるものの幸せを願うことが、私たちの使命だと考えます。
これは、仏教を人生の地図としていくうえで大事な基本です。
先日、インドでのチベット仏教の法話会でこんなお話がありました。
「みなさんは、具合が悪くなったら病院に行きますね。お医者様に相談して的確な処方をしてもらい、お薬を飲みます。心も一緒ですよ。心も、どうぞ健康に、すこやかになるように心がけてくださいね」
自分で毒を飲むようなことはせず、大切に育てていこうと思う気持ち、自分の神聖さに気づいて、心をよりよく培っていこうと思う気持ち。心に、その思いをもち続ければ、いまどんな状況にあっても、必ず光が差すときが訪れます。
お釈迦様の弟子のひとり、チューラパンダカのお話をしましょう。
経典によると、チューラパンダカは経文の一節さえまったく覚えられなかったそうです。周囲の弟子たちはあきれ、彼自身も自分の愚かさを嘆いていました。
それを知ったお釈迦様は、「自らの愚かさを自覚する人は智者であり、自ら智者と言う人は本当の愚者である」とおっしゃいました。
そして、チューラパンダカに「私は塵を払う。私は垢を除く」という2つの言葉を授けました。でも彼は、その言葉すら覚えることができなかったのです。
そこでお釈迦様は、「言葉を覚えることができないのであれば、比丘(びく/僧侶)たちの草履を拭きぬぐいなさい」と諭しました。
そして僧侶たちには、草履を拭いてもらうときにその2つの言葉を唱え、チューラパンダカに教えるように伝えました。
その後、チューラパンダカに草履を拭いてもらうたびに、僧侶たちは「私は塵を払う。私は垢を除く」と教え、チューラパンダカは心を込めて草履を拭きながら、止むことなくこの言葉を唱え続けました。
そして、ある日の明け方少し前、ついに彼は「私は塵を払う。私は垢を除く」とは、自分の内面にある心の汚れ(三毒)を除くことだったということに目覚めました。ついに悟りに至り、阿羅漢(あらかん/煩悩を脱した覚者)となったのです。
このエピソードは、知識や学問がなくても、自分の心に渦巻く欲や怒り、愚かさを除いて、悟りを目指す道は開かれていると教えています。
そしてもうひとつ、知識や学問にばかり頼っていては、かえって道の妨げになるという教えも込められています。
人間は、自分自身がコツコツ取り込んで成果を得たものでしか、満足感を得られません。
たとえば、憧れる人がいて、「あの人はすごいな」と思っても、うらやましいと見つめているだけでは、自分自身は変わらないし満足もできませんね。また、おいしそうなディナーを人が食べているのを見ているだけでは、自分がおなかいっぱいになることもありません。
ですから、自分を救いたいと思ったら、自分自身で最初の一歩を踏み出すしかありません。
そして、そばで苦しんでいる人を助けたいとどんなに思っても、実際立ち上がれるのはその人だけです。
私たちが踏み出す最初の一歩は、必ず私たちの目の前に用意されています。
(※この連載は、毎週月曜日・全8回掲載予定です。次回は5月21日掲載予定です。)
緑川 明世 (みどりかわ みょうせい)
作品紹介
苦しみから自由になる「道」がある――。心をゆるめ、心身をすこやかに育む、人生100年時代に役立つ生き方のヒント。
定価:本体1,300円+税/学研プラス
バックナンバー
- 何歳からでも、よい習慣を始められる
- 1分間の瞑想で、心が元気になる
- 最初の一歩を踏み出せるのは、自分だけ
- 人生は、リミットレスで充実させることができる
- 心に、少しずつ「よい種」を植える
- 幸せの種は自分の中にある
- 心は、逆境をはね返すしなやかさをもっている
- あなたの心には、 決して折れないしなやかさがあります