スワートを離れるのは、いままでに経験したどんなことよりもつらかった。
…わたしたちがスワートを離れることになった理由は、貧しさでも愛でもない。
……すべてはタリバンのせいだ。
タリバンとパキスタン政府軍との戦闘が激化し、父を残しマララ一家は生まれ故郷スワートを離れることになります。愛する父とも離れ、それからの日々は悲嘆にくれる出来事ばかり。
たとえば彼女の12歳の誕生日を一家の誰も覚えていてくれなかったように。彼女を愛してやまない父親でさえも、疲労の日々の中でその日を忘れたように。タリバンに対するいらだちと恐怖は、人々から豊かな感情や、深い理性を奪い取っていったのでした。
当時を振り返るマララの描写にも、暗い影が宿ります。彼女自身が発した言葉ではないにしろ「死んでいる」「殺してやる」というような凍りつく表現が目につきます。「まだ11歳なのにすべてを奪われた気分だった」とも書いています。この時期マララは理性を失いかけていた、とまで語るのは酷でしょうか。すくなくとも生きる希望を失いかけていた、とは言わざるを得ません。
それでも、生きていかなければならなかったのです。
政府軍が勝利したという情報をもとに、マララ一家はスワートに戻ってきます。しかし……、彼女を待っていたのは、もっと悲惨な状況と困難な生活でした。大洪水とコレラの発生、残存タリバンによるテロ……。
……IDFP(国内避難民)になったとき、わたしは政治家になることを考え始めた。やはりそうするべきだと、このとき確信した。パキスタンは問題だらけなのに、それを解決しようとする政治家がひとりもいない。
すでに時折メディアに取り上げられるような存在になっていたマララでしたが、彼女の発言は、その回数と鋭さを増していきます。
(初版発行人 脇谷典利)
マララ・ユスフザイ
パキスタンの女性人権活動家。1997年7月12日、北部山岳地帯のスワート渓谷に生まれる。11歳のとき、英BBC放送のウルドゥー語ブログに、グル・マカイというペンネームを用いて、日記を投稿し、注目を集める。女性の教育の権利を認めないタリバンの圧力に屈せず、「女の子にも教育を、学校に通う権利を」と訴えつづける姿勢が、多くの人々の共感を呼んだ。2012年10月9日(当時15歳)、スクールバスで下校途中に、タリバンに襲われる。頭部を撃たれ、生死の境をさまようものの、奇跡的に命をとりとめ、その後も教育のための活動を続けている。その勇気と主張が評価され、2011年にパキスタン青少年平和賞、2013年に国際子ども平和賞を受賞。『タイム』誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」の最終候補者4人のうちのひとりにもなった。2014年、史上最年少でノーベル平和賞を受賞。その他、数多くの賞を受けている。全世界の子どもたちがみな教育を受けられるよう訴えるとともに、NPO組織である「マララ基金」を通して、世界中の草の根団体や教育支援活動をサポートしている。
www.malalafund.org
作品紹介
「すべての子どもに教育を」と訴え、イスラム武装勢力に銃撃された16歳の少女・マララの手記。本書は、テロリズムによって生活が一変した家族の物語でもあり、女の子が教育を受ける権利を求める戦いの記録でもある。世界36か国で翻訳の話題作!
定価:本体1,600円+税/学研プラス