第6回 傷心のマララ 

時にはマララのように

更新日 2020.07.17
公開日 2014.12.10
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 マララ、わたしの勇敢な娘。わたしの美しい娘……

 

 2012年10月9日のこと。父は、大きな声で何度も何度も呼びかけました。タリバンがマララに向けて撃ったコルト45の弾丸は、彼女の左目から首あたりを直撃しましたが、幸い脳には届いていませんでした。一命は取り留めたのです。とはいえ、母の心配——名声と引き換えに命を狙われるのではないか——は当たってしまったのです。

 ここからの母の祈りには、周囲の人々が驚くほどのものでした。ある時は、パシュトゥンの女性がめったにしない(してはならない)こと、スカーフをとり、天にかざすことまでして祈ったのでした。そうまでしないといられない母親の気持ちに、私は胸をつかれました。父親が狼狽していたのに対し、母親のこの強さはといったら……!?

 マララはイギリスのバーミンガムにあるクイーン・エリザベス病院に搬送され、手術を受けることになります。ここは、アフガニスタンやイラクでの戦闘で負傷した兵士を数多く治療してきた実績のある病院でした。

 マララの手術は成功しました。とてもゆっくりとなら読書ができるくらいに体力も回復しました。しかし、彼女の心は深く沈んだままでした。それは襲撃のショックから? それともタリバンへの怒りから? どちらも違いました。

 

 残念なのは、撃たれる前に、犯人と話ができなかったことだ……犯人のことを恨む気持ちは、これっぽっちもなかった。もちろん、復讐しようとも思っていない。わたしはただスワートに帰りたかった。家に帰りたかった。

 

 つらいときには、とにかく家に帰りたくなるものです。故郷の自然に抱かれたくなるものです。

 しかし、マララがいるのはバーミンガム。たしかに、事件を機に自分の名は世界に広まった。アンジェリーナ・ジョリーやマドンナやビヨンセなど世界のセレブからも応援のメッセージをもらった。

 ……でもここはバーミンガム。

 マララは、今も彼女の故郷スワート渓谷には戻れないのです。

(初版発行人 脇谷典利)

 

マララ・ユスフザイ

パキスタンの女性人権活動家。1997年7月12日、北部山岳地帯のスワート渓谷に生まれる。11歳のとき、英BBC放送のウルドゥー語ブログに、グル・マカイというペンネームを用いて、日記を投稿し、注目を集める。女性の教育の権利を認めないタリバンの圧力に屈せず、「女の子にも教育を、学校に通う権利を」と訴えつづける姿勢が、多くの人々の共感を呼んだ。2012年10月9日(当時15歳)、スクールバスで下校途中に、タリバンに襲われる。頭部を撃たれ、生死の境をさまようものの、奇跡的に命をとりとめ、その後も教育のための活動を続けている。その勇気と主張が評価され、2011年にパキスタン青少年平和賞、2013年に国際子ども平和賞を受賞。『タイム』誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」の最終候補者4人のうちのひとりにもなった。2014年、史上最年少でノーベル平和賞を受賞。その他、数多くの賞を受けている。全世界の子どもたちがみな教育を受けられるよう訴えるとともに、NPO組織である「マララ基金」を通して、世界中の草の根団体や教育支援活動をサポートしている。
www.malalafund.org

 

作品紹介

わたしはマララ

「すべての子どもに教育を」と訴え、イスラム武装勢力に銃撃された16歳の少女・マララの手記。本書は、テロリズムによって生活が一変した家族の物語でもあり、女の子が教育を受ける権利を求める戦いの記録でもある。世界36か国で翻訳の話題作!

定価:本体1,600円+税/学研プラス

 

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