桶狭間の戦いは、情報戦だった。

千田琢哉『20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう。』セレクション

更新日 2020.07.30
公開日 2017.06.19
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 奇襲の代表としてよく語られるのが、織田信長と今川義元による桶狭間の戦いだ。
 かなり過小評価しても今川義元の総兵力は約2万人。
 これに対して信長の手勢は、戦死者を除けば2000人程度だったともいわれている。
 10対1の喧嘩ではまともな勝負にならないことは、誰が考えても容易に想像できるが、実際に信長はこの戦いに勝ったのだから、奇襲であることは間違いないだろう。
 だが、ここで言いたいことは奇襲か否かではない。
 もう一歩突っ込んで考えると、信長はすでにこの時代にあって、情報活用の重要性を洞察していたということがわかるのだ。
 なぜなら、この戦いの勝因は、信長の極秘情報獲得にあるからだ。
 桶狭間の戦いで、信長が戦功第1位として賞したのは簗田政綱(やなだまさつな)だったといわれる。
 政綱は信長に「只今、今川勢は桶狭間近くで宴会を開いており、酒に酔い潰れている最中でございます」と伝えたのだ。
 当然、信長はこの千載一偶のチャンスを見逃さなかった。
 たとえ10倍の兵力差があろうとも、桶狭間のような狭い地形であれば兵士たちは細長い隊列にならざるを得ないはずであり、義元のいる本陣だけを狙えば、一点突破で攻め抜いて勝てると判断したわけだ。
 実際に信長は「他の連中など相手にするな。狙うのは義元の首のみでよい」と、兵士たちに呼びかけた。
 大雨で視界が悪く、足音に気づかれにくかった幸運にも恵まれた。
 ちなみに、信長が戦功第2位として賞したのが、義元に一番槍をつけた服部小平太(一忠)と、その首を獲った毛利新介(良勝)だったという。
 いい仕事をするためには、いい情報がいかに大切であるかに改めて気づかされる。
 いや、本当はいい情報を摑んだだけではダメであり、いい情報を摑んだら、即、行動することが大切なのだ。

(※この連載は、毎週月曜日・全8回掲載予定です。2回目の次回は6月26日掲載予定です。)

 

千田 琢哉 (せんだ たくや)

文筆家。 愛知県犬山市生まれ、岐阜県各務原市育ち。 東北大学教育学部教育学科卒。 日系損害保険会社本部、大手経営コンサルティング会社勤務を経て独立。 コンサルティング会社では、多くの業種業界における大型プロジェクトのリーダーとして戦略策定からその実行支援に至るまで陣頭指揮を執る。 のべ3,300人のエグゼクティブと10,000人を超えるビジネスパーソンたちとの対話によって 得た事実とそこで培った知恵を活かし、 “タブーへの挑戦で、次代を創る”をミッションとして執筆活動を行っている。

■E-mail
info@senda-takuya.com

■ホームページ
http://www.senda-takuya.com/

作品紹介

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