著者インタビュー(第4回)音楽プロデューサーの仕事について

『プレイバック制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡』

更新日 2019.08.27
公開日 2011.04.18
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【川瀬泰雄プロフィール】
東京音楽出版(現ホリプロ)入社後、山口百恵の引退までプロデュース。そのほか井上陽水、浜田省吾等のプロデュースも担当、現在まで約1600曲をプロデュース。

入社したての頃にご担当されていたのは、どういうアーティストの方々でしたか?

:和田アキ子さんのディレクターを担当し、その後、鈴木ヒロミツ氏がボーカルである硬派のロックバンドTHE MOPS、そしてホリプロにたくさん所属していたグループ・サウンズを担当しました。
 また単発企画では、チャールズ・ブロンソンのCMで有名になったジェリー・ウォーレスの「マンダム・男の世界」などがあります。

和田アキ子さんやTHE MOPSでは、音楽制作で意識されていたこと、さらに大好きなビートルズからの影響などもあればお聞かせください。

:和田アキ子さんの場合は女性のR&B歌手という日本では珍しい存在でしたので、リズムを強調する曲作りやアレンジを意識することが多かった記憶があります。
 THE MOPSの場合は、自分が経験してきたバンドの方向性とかなり近いものがあったので、自分がやりたいこととTHE MOPSのやっていきたい方向がピッタリと合っていました。
 もちろん、当時のミュージシャンでビートルズの影響を受けていないミュージシャンはいなかったと思います。アレンジャーの星勝氏の初めてのアレンジもビートルズの「イエスタデイ」から影響を受けて、THE MOPSの曲を弦楽4重奏でレコーディングするというところからスタートしました。僕もこのアレンジをするところから立ち会っていました。
 星勝氏がどんどんアレンジャーとして偉大になっていく過程も一緒に経験することができました。

井上陽水さんのデビューもご担当されたそうですが、最初の出会いは?

:当時のホリプロの堀社長から九州のRKB毎日放送の深夜番組でリクエストのNO.1になったという新人のアンドレ・カンドレというアーティストが上京するので、話をしてくれということでした。それが、後の井上陽水氏です。デモテープを聴いてメロディの良さと美声に惚れ込み、担当を志願しました。
 ホリプロでのフォークやロックの新人アーティストはほとんど僕が担当しました。
 前述のアレンジャーの星勝氏が、井上陽水としての最初のアルバムから担当し、「二色の独楽」では、ロスアンゼルスでアメリカ人のミュージシャンやスタッフから絶賛されたので、とても嬉しかったことを思い出します。

アンドレ・カンドレの名前でデビューした井上陽水さんを担当していた頃、面白い出来事があったそうですね。

:アンドレ・カンドレのデビュー曲の「カンドレ・マンドレ」のシングルのジャケット写真が、陽水氏のサングラスをかけた顔と外した顔の2つが使われていたために、アンドレとカンドレというデュオ(2人組)だと思っていた人も多く、マネージャーの僕をアンドレの相方のカンドレだと思い、ステージに僕と陽水氏のために椅子とマイクが2台セットされていたり、放送局のブースではディレクターが、陽水氏と一緒に僕がスタジオのマイクの前に坐るのを待っていたりすることが、何回もありました。

:アンドレ・カンドレから「井上陽水」に、名前を変えるきっかけは何だったのでしょうか?

:アンドレ・カンドレの曲は、プロテスト・ソング全盛の当時のフォーク界では受け入れられず、2年間ほどまったく仕事になりませんでした。
 レコードも作れずホリプロからも解雇通告が出そうな時、会社の同僚からポリドール・レコードの多賀英典氏を紹介されました。そして「井上陽水」と名前を変えて再デビューすることになり、僕がマネージャーとディレクターを兼任するという
期間が2年間ほど続きました。
 その2年で日本全国を2周くらいするほど、各地の様々なフォーク・コンサートを経験しました。

井上陽水さんがブレイクするきっかけは?

:1枚目のアルバム「断絶」をリリースして2~3か月が経った頃、名古屋の東海ラジオの深夜番組に出演した時、パーソナリティだった森本レオ氏が井上陽水氏を気に入り、急遽予定を変更して2時間の番組でアルバム「断絶」の全曲をかけるという、大胆な提案をプロデューサーの塩瀬氏にしてくれました。
 そして異例の新人アーティストのアルバムだけの2時間番組が実現し、それをキッカケに井上陽水氏は名古屋から火がつき始めました。
 その後、スケジュールがきつくなり、ディレクターとマネージャーの兼任が無理になってきたので、マネージャーは他の人に任せて、自分はディレクターの専任になりました。

そしてその後、アイドルだった山口百恵さんを担当することになったわけですね。

:時間に余裕が出来た時期で、前から気になっていた山口百恵さんの担当ディレクターが退社するという話を聞き、山口百恵さんのディレクターに志願しました。
 ロックやフォークにプラスしてアイドル・ポップスを作るというスタンスは、僕にとって非常にバランスがいいものでした。
 THE MOPSや井上陽水氏で出来ないことを山口百恵さんに取り入れたり、その逆だったりと思いつくことが実現していきました。

:THE MOPSや井上陽水さんで出来ないことを、山口百恵さんの音楽に取り入れたこととは何ですか?

:具体的な曲名は思い出せません。微妙なニュアンスだったりするので、簡単に例を挙げるのは難しいのですが、たとえばバンドでなくては再現できない、
間奏でギターのアドリブが延々と続くという当時のプログレッシブ・ロックのようなサウンドの場合だと、百恵さんの曲としては何のための間奏なのか理解しにくいので、それはTHE MOPSへのアイデアにしたり、また、陽水氏の曲としては可愛らしくなりすぎるテーマは百恵さんに使う、というようなことです。
 ただ、百恵さんがアーティストとして大きくなった時にはTHE MOPSは解散していたり、井上陽水氏は別の会社を作っていたりと僕とは離れていたので、面白いアイデアは全部百恵さんに注ぎ込んでいきました。

編集部:色々なアーティストのプロデュースは、百恵さんの音楽制作にも生かされてきました。川瀬さんが今までにプロデュースした曲は、なんと1600曲ほどになるそうです。  そんな川瀬さんの情報は、ご自身のホームページで紹介されているので、ぜひチェックしてみてください。

http://www.thebeatlemania.com/chronicle.html

 

☆著者・川瀬さんへのインタビュー、次回は山口百恵さんの音楽作りがどのように行われたのか、さらに深く聞いていきます。皆さん、次回もぜひチェックしてください!

Archives————————————————

著者インタビュー(第1回) 「山口百恵の音楽とは?」

著者インタビュー(第2回) 「当時のデモテープについて」

著者インタビュー(第3回)「当時のデモテープについて・続編」

「プレイバック制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡」

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