まず、私がどのような人間かを知っていただくために、初めに自己紹介をさせていただきます。
神光幸子(かみみつさちこ)というのは本名で、神光という姓は現在、日本に一軒しかありません。
神光家は、第12代景行(けいこう)天皇の子孫であり、菅原七家の一つとして京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう)の宮司を初代から務めてきました。
北野天満宮といえば皆さんよくご存知かと思います。
そう、「天神さま」や「学問の神様」で知られる菅原道真(すがわらのみちざね)公を祀っている神社です。
創建されたのが平安時代中頃の天暦元年(947)なので、今から千年以上前になりますが、私のご先祖様はその頃から宮司を務めていたことになります。
現在は女子が続いたことにより宮司は退いていますが、昭和の初期、戦前までは宮司を務めていました。
私の父は、私が3歳の時にがんで亡くなりました。母はその後、名前を神光に戻しました。
私は6歳くらいの時、何か使命を感じて「神光家を立て直す」と自分で言っていたことを覚えています。
宮司の家系ではあったものの、祖父母や母からは特別な教育を施されたわけではなく、厳しい面はあったものの、当時としてはごく当たり前な躾を受けて育ちました。
特に母は私に対して、この世の常識、世間とはこういうもの、女性はかくあるべしという教え方でした。
それとともに、母は父の死によって旧姓に戻ったことで、千年以上続いてきた神光という家系を継ぐ覚悟をとても強くもって生きてきたように思います。
母がいる実家は今も北野天満宮の北門のすぐ前にあり、私は幼い頃から毎日天満宮の中を通って生活していたものです。
霊感を封印していた幼少期から青年期へ
私は地元の高校を卒業してから、20歳の時に結婚をしました。
その後、二人の息子を授かり、専業主婦として育児や家事に専念しながら、少なくとも表向きには30歳までは普通に暮らしてきました。
とはいえ、代々神事をしてきた家系に生まれたからか幼少期から直感や霊感が強く、不思議な体験をたくさんしてきたのも事実です。
物心がつく頃からいろんなモノがしゃべる声が聞こえたり、幽霊が見えたり、人の心の声が聞こえたりして、それを母に話すと、「絶対、人にしゃべってはいけない」と口止めをされていました。
自分では普通だと思っていたことが、後になって普通ではないと知らされ、母がいつも忙しそうだったこともあって、私は自分の心に「なぜ?」「どうしてなの?」と問いかけるようになりました。
すると、いつもどこからか声が聞こえて、あらゆる問いに対して答えをくれました。
後からそれが神様だとわかったんですが、祖母や母からは、霊感があることを伏せて「普通に暮らしていくように」との教育を受けていたので、自分でも普通の人と同じように生きようと心がけてきたのです。
でも、結局のところ、普通の人生をずっと続けていくことはできませんでした。
その理由は、霊感の強さと共に、私の体質にも問題があったからです。
私は生まれた時から虚弱体質で、今でいうアレルギーでした。
当時はまだアトピーという病名はなく、原因不明の皮膚の異常。当然、病院に行くとステロイド剤が投与され、定期的に注射を打つという日々が続きました。
皮膚を抑えるとぜんそくがでるなど、完治することはなかったのですが、薬のおかげでなんとか高校まで通うことができ、それまではクラスメイトと同じように普通に生きてこられました。
ところが、私が20歳の時、命に関わるほど重大な出来事が起きたのです。
ちょうどその頃、ステロイドの副作用が世間で話題になり、それを知った私は怖くなって、それまで使っていたステロイドを自己判断でいきなり止めてしまいました。
するとその結果、リバウンドが起きて、一晩で一気に全身ずるむけ状態になってしまったのです。
リンパ液が流れおち、皮膚もなくなり、風に当たっても痛みがでる。髪の毛も抜け落ちてムーンフェイス状態になり、痒みに耐えられず全身ひっかき傷で血だらけ状態……。
驚いた母に連れられて病院に行き、すぐに入院しました。
入院をしている間、断食をしたり漢方薬を使いながらステロイド剤は使わないようにして、しばらくベッドの上で寝たきりの生活が続きました。
そんなある日、改めて自分の姿をふり返って、「薬を使わずに生きたとして、何年か寿命が延びてもどんな意味があるのだろう?」「ただ副作用を気にして、痒みと痛みと戦うだけの毎日を過ごしていてもしょうがない」という思いがよぎりました。
そして、いままで自分の身体を生かしてくれていた薬に対して感謝もせずに、リバウンドの苦しみを薬のせいにしていた、そんな自分の心の貧しさに気づいたのです。
そこで私は、
「皮膚がもとのように張ってほしい」
「普通の人と同じように生きていきたい」
「もしも薬の副作用で寿命が短くなったとしても、人のお役に立てる人生を生きたい」
そう心から願いました。
そして、再びステロイド剤を使うようになったら、皮膚がきれいに再生。
「こんなにも楽なのか!」と心身共に穏やかになって、なんとか人並みに子供も産めるようにもなったのです。
それ以来、薬に頼って生かさせていただいているという感謝の気持ちを日々忘れずに過ごせるようになりました。
九死に一生を得た出来事
しかし、試練は再びやってきました。
母親の強い教えにしたがって、長い間霊感を封印したまま専業主婦として何不自由ない日々を送っていた私でしたが、その封印を解かざるを得ない出来事に遭遇したのです。
それは私が30歳の時、交通事故で奇跡的な生還を遂げたことがきっかけでした。
いつものように自転車の後ろに子供を乗せて、幼稚園の送り迎えをしていたある日のこと。
たまたまその日は急いでいたので、自転車で立ち漕ぎをしながら家に向かっていたのですが、ちょうど私の家の近くの十字路にさしかかった瞬間、横路から走ってきた車と出会い頭に激突してしまったのです。
その瞬間スローモーション状態になって、私は頭の中で「どうしよう? 絶対に子供を倒したらいけない!」と思って、全身の力を振り絞るようにして両足を地面に踏ん張りました。
普通だったら子供もろとも遠くまで吹き飛ばされているはず……なのに、自転車は倒れることなくその場でピタッと制止したままでした。まさに火事場のバカ力だったのでしょう。
ところがその時の衝撃で、私の首と腰の骨はあり得ない状態で曲がってしまったのです。
事故後、吐き気がして手足がきかず、目も見にくい状態になったことから、病院で診察を受けたところ、医師から「これで生きている人は見たことがない」といわれました。
それから3ヶ月ほど通院し、胃薬をもらって飲んだものの、異様な骨の歪みがそれで治るわけはなく、不調はいっこうに改善せず、身も心もとても苦しい毎日が続きました。
20歳の病気から始まって、今度は交通事故によって九死に一生を得たものの、結果的に後遺症で死ぬほどの苦しみを味わうことになってしまったのです。
そこで私はついに観念し、神様に対して、「これまで封印していた能力を使って仕事に捧げます」と誓いました。
実をいうと、それまでの人生で神様の応援を確信しながらも、霊媒としての能力を封印してきたことにどこか後ろめたい気持ちがあって、身体がきつければきついほど、自分の中ではあの世や宇宙の真理についてずっと探究し続けていました。
「ここまで来たらもう観念するしかない。これからは神様に仕える仕事に専念しよう」
そう思った私は、子供を夫に託して、籍を神光に戻すことを決意。当時の夫も息子たちも理解してくれて、36歳の時に離婚をし、神光の名前に戻りました。
神光 幸子 (かみみつ さちこ)
書や学問の神さまとして「菅原道真」がまつられている京都の北野天満宮の社家の娘として生まれる。
神光という名は、現在日本に一軒しかない姓で、神光家は、十二代景行天皇の子孫であり、菅原七家として北野天満宮の初代(1000年以上前)から宮司を勤める。
幼少の頃から霊的であったり、不思議な体験を数々経験しており、30歳からこの道で生きることを決意する。
千年の歴史を持つ神光家に伝わる、心の持ち方や技法を教える「神光塾」を全国で展開している。
作品紹介
「神様の伝え手」として千年の歴史をもつ神光家に伝わる「よりよく生きるための技法」を日常生活の中で実践できる方法として紹介。
定価:本体1,300円+税/学研プラス